「ブルマァク45周年記念インタビュー」第7弾は、70年代ブルマァクで原型を担当した、名古屋在住の原型師のひとり、市川二巳氏を紹介! マルサン・ブルマァク時期の怪獣ソフビでは、名古屋在住の3名の原型師が造型に関わっている。そのうちのひとりは、怪獣ソフビの基準を作った原型師・河本武氏。そしてブルマァク時期、新たに参加されたのが紹介の市川二巳氏なのだ。果たして市川氏とは、どのような人物か? 鐏三郎氏(ブルマァク代表)とともに当時の様子を振り返っていただきました!
※2023年10月15日追記
最近、BS-TBSにて『X年後の関係者たち』で「ソフビ・ブーム」が特集されたり、ツブラヤストアONLINEにて最初に発売された怪獣ソフビとなる「ウルトラQ怪獣 当時風カラー版」が受注中だったり、怪獣ソフビの歴史にスポットが当たっている。sofvi.tokyodfでは、2014年に45周年を迎えたブルマァクを記念し。怪獣ソフビの歴史を作ってきた人物たちをクローズアップしたインタビューシリーズを全9回にわたって掲載している。そこで今再び怪獣ソフビの歴史を紹介すべく、当時の貴重な関係者インタビューをここに再アップします! ぜひご覧ください!
市川二巳(いちかわ・ふたみ/右)
■昭和4年(1929年)生まれ。愛知県出身。玩具原型師。1~2年ほど前まで現役だったが現在は原型師を引退。
1.プロフィールについて
―まずプロフィールを教えて下さい。肩書きは最初から「原型師」ですか?
市川二巳(以下、市川) そうです。最初はノベルティーなどの原型で、その後、お菓子のオマケなど、なんでも作っていました。
―どういう経緯で原型師になられたんですか?
市川 もともと木彫りの彫刻家を目指していたんですね。ただ芸術では、食べていけませんからあきらめてね(笑)。
―最初に木彫の道へ進もうと思った理由は何だったんですか?
市川 戦後、何か仕事をしないといけないという時、20歳になる前に建具屋になったんです。その当時は指物大工(※釘を使わず、木の板同士を組み合わせて木工品を作る職人のこと)と言ってね。嫁入り道具のタンスや家具などを数多く作りましたよ。ただその仕事、4年ほどやりましたがしっくりこなくてね。その時、彫刻家の高村光太郎氏に憧れていたこともあって、
芸術家になろうと思い「弟子にして下さい!」と手紙を送ったんです。結局、断られましたけど(笑)。そうこうして22~23歳ぐらいかな……人形の原型もやられてる名古屋の木彫家、後藤白童(ごとうはくどう)先生に弟子入りしたんですよ。先生は、日展にもかなり作品を出されている方なんです。
―そこで憧れていた木彫家の道へ進めたわけですね。
市川 ところが、それでは全然食べていけない(笑)。そこで木彫を学びながら、当時ブームだった事もあって陶器会社に勤め始めて人形などの原型を手がけるようになるんです。そして20代後半頃……昭和30年(1955年)ぐらいに会社を辞めて独立するんですね。それまで会社員として毎日会社に出勤していたため、独立当初は仕事が無いと気が気じゃなかったですね。でも、だんだんそういう焦りは無くなって「仕事が無いなら依頼が来るまで待っていればいい」と思えるようになりましたよ(笑)。
ーデンとかまえていられるよいうになったんですね(笑)。
市川 そうです(笑)。そうこうしているうちに東京で日本人形を作る水野玩具さんというメーカーさんを紹介されたんです。水野玩具さんの日本人形の頭部はソフビ製でしたから、それをきっかけにソフビ原型の仕事も増えていったんです。しばらく陶器とソフビ、両方の原型をやっていました。ただ、だんだん陶器の原型がすたれてしまい、逆にソフビの原型が増えていったんです。
鐏三郎(以下、鐏) 多分、陶器の人形がブームだったのが昭和36~37年ぐらいでしたね。
市川 人形はおひな様から、金太郎さん、干支モノなどよく作りました。しばらくすると、お菓子屋さんからもアイスクリームを入れる容器や化粧品屋さんからもシャンプーを入れる容器などの原型依頼をいただけるようになるんです。
―シャンプーなどの容器はキャラクターモノが多かったですからね。
市川 お菓子から、石けんからありとあらゆるものの原型を手がけました、石けんは未だに某化粧品メーカーの干支モノの原型を手がけています(2010年当時)。材料は粘土だけで毎年、1万円分ほどあればできますからね(笑)。
―年1万円の粘土が何十倍にもなるわけですよね(笑)。
鐏 材料代で考えたら原価は安いけど、そこは市川さんの腕前ですよね。やはり腕前が無いと仕事の依頼は来ないわけですから。
2.ブルマァク原型を手がけるきっかけ
―そんな中、ブルマァクさんの原型を引き受けることになったきっかけはなんだったんですか?
市川 様々な原型を手がけてゆく中、東京・葛飾界隈の成型工場などで「凄く早い原型師がいる」ということで、私の名前が知られていったようなんですね。私は、原型を作るのが早かったし、当時は、それが1番工場から求められていましたから。
鐏 確か依頼したきっかけは、1971年頃のブルマァクで生産を担当していただいた、ゆうしん玩具さんに「名古屋に上手な方がいますよ」とご紹介を受けたのです。当時は、次から次へと作らないといけないので腕の良い原型師さんは、いつも探していました。もともとマルサン時期に1番最初のゴメス、ガラモン、ゴロー、カネゴン、パゴス、ペギラをお願いした原型師・河本武さんも名古屋の方ですから「名古屋の原型師さんは上手い」という私自身の先入観もあり、お願いすることにしたのです。
―東京の工場では、その腕前は有名だったんですね。
市川 当時お世話になっている工場の方が結婚するので、東京の品川まで出かけた事がありました。私はずっと名古屋で、全て工場さんを通して仕事を受けていたので、全く解ってませんでしたが、その結婚式で関係者の方が、皆さん私を知っ下さっていたので驚いた覚えがあります。
―当時は、どのような手順で製作されていたのですか?
市川 まず元になる資料を送っていただき「どう作って欲しいのか?」を指定した簡単な指示と、あとはサイズの確認ですね。それさえ解れば、すぐに出来てしまいますよ。
鐏 当時は資料として、怪獣の写真やデザイン画などを送っていたと思います。
―怪獣ソフビの原型のデフォルメは、市川さんの方でアレンジを加えることなどあったのですか?
市川 いえ。あくまで依頼仕事ですから、私の方で勝手に変更したりしません。例えばディズニーなどの場合は、依頼用のスケッチにデフォルメなど事細かに指示が書かれているので、その通り制作していました。そして修正指示が来て、また直してを繰り返しましたね。そういう中で怪獣の原型は、わりと自由だったと覚えています(笑)。
―手が早いと言うお話でしたが、ひとつの原型をどれくらいのペースで製作されていたのですか?
市川 だいたいブルマァクさんの怪獣サイズ(全高約23㎝のスタンダードサイズ)で形に1日。少し固まるのを待ってから仕上げていたので1日~2日ぐらいだったと思います。
―ブルマァク怪獣も、そんな時間で作られていたのは驚きです! ちなみに当時、放送されていた『帰ってきたウルトラマン』などTVでご覧になったりしましたか?
市川 いえ、全く見ていません。「何曜日の何時から放送されるよ」とは、聞いていましたが、当時はTVを見ている暇もないほど忙しかったですから、怪獣についてデザイン以外は、自分が作った怪獣がどんな存在なのか全く知らないんです(笑)。
―当時、原型の依頼を受けた時、ブルマァクさんの方から何か注文や、ご自身で造型する時に気をつけていた事などありましたか?
市川 特になかったように思います。芸術家なら自分のこだわりなどあると思いますが、怪獣ソフビは商品だから、お客さんに気に入ってもらえるよう注文通り作るだけでしたね。
ー完成した粘土原型はどうしていたんですか?
市川 そのまま成型屋さんに送っていました。成型屋さんでそれを型取りし、ワックスに置き換えてくれるんです。そのため私の仕事は、完成した粘土原型を成型屋さんに送って終了です。もう毎日、原型を航空便で送るので、便の時間に間に合わせるのが大変でした(笑)。
鐏 当時はまだ宅急便は無く、航空便が1番速かったんです。それに今のようなパッキンも無いから、綿とか新聞紙とかで原型をくるんで送っていただいていました。
市川 近くに縫製屋さんがあったので、そこでクズ布をもらって荷造りしましたね。
―いちいち大変ですね。ちなみにブルマァクさんで発売された怪獣で、どれを造型されたのか覚えていますか?
市川 当時はゴジラやキングギドラ、ヒーローなどいろんなメーカーさんの原型を作っていますが、ブルマァクさんに限ると……よく覚えてないんです。ただ点数的にはそんなにやってないと思いますよ。
鐏 そうでしたね。お願いしたのは確か数点だったと記憶しています。
市川 工場通しだから、どこのメーカーさんなのかまで解らないんです。それに次から次と依頼が来るので忙しかったという記憶しかないんですね。
鐏 記憶がはっきりしてませんが多分、ザラガス、パンドン、ジェロニモン、アギラ、テレスドン、キーラ、ユートムなどは原型をやっていただいたイメージが残っているんです。市川さんの原型は、微妙に特徴があるんですよ。
市川 当時は、色んなモノを作りましたから。
鐏 1日~2日で1体作っているわけですから、もう流れ作業でこなしていくのが精一杯ですよね。
市川 とにかく忙しかったです。40代の頃、股関節を痛めたんです。1日も休み無しで朝5時に起きて、夜10時まで仕事。食事とトイレ以外は、全く作業机から動けなくて足腰が弱ってしまったんですよ。それぐらい働きましたね。結局、最初に憧れた芸術家にはなれませんでしたが……。
鐏 いや、芸術家になるより原型師の方が良かったと思います。名前は芸術家になった方が知られるかもしれませんが、原型師の方が生活も安定するし、なにより当時、市川さんが作られた原型に今でも多くのファンがいるわけですから。
―全くその通りだと思います。本日は当時の貴重なお話をありがとうございました!
(2010年市川氏のご自宅で収録したインタビューで構成)
↑原型で使用されているという木節粘土。炭化した木片を含んでおり、乾かしてから割ると木片のように割れることからこの名が付いた。
↑道具は全て市川氏自身の手作り。既製品の道具もあったが、自分の仕事にピッタリのモノが無く全て自作されたという。
↑市川氏のご自宅に飾られていたモノ。いずれも氏が原型を担当されている。
↑この恐竜のソフビも市川氏の造型。味わいのある恐竜ソフビだ!
■ブルマァク45周年記念インタビューバックナンバーはこちら
第1回「怪獣ソフビとブルマァクの始まり」
第2回「怪獣ソフビ生産を担当した島田トーイ」
第3回「最初の怪獣ソフビ6体の原型師・河本武氏」
第4回「ブルマァク時代のヒーロー&隊員の原型師・増田章氏」
第5回「ブルマァク時代の店頭用ソフビの原型師・宮田芳生氏」
第6回「70年代当時から現在までブルマァクの生産を担当するサトー」
第8回「ブルマァク復刻版の彩色サンプルを手がけた西村祐次氏(M1号)」
第9回(最終回)「これまでのインタビューを振り返る!ブルマァク代表・鐏三郎氏」